ブックタイトルるるぶ特別編集「今帰仁」
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るるぶ特別編集「今帰仁」
3てついに廃城となりました。ました。1665年には監守が首里へ引き揚げ監守であった向克祉(しょうかつし)が死亡し今帰仁グスクは、薩摩軍に火を放たれ、当時のによる侵攻です。沖縄本島北部の拠点であった廃城の契機となったのは1609年の薩摩に正殿などが整備されています。王国の建造物は破壊され、首里城と同じようを起こす恐れがあったからです。その際、北山首里より遠く、地は険阻で人は勇ましく、反乱が派遣されました。今帰仁が中山の都であったは、北山の反乱分子を一掃すべく中山から監守消え去りました。1422年、今帰仁グスクに中山に敗れた北山王国は歴史の表舞台から今帰仁グスク4北山滅亡後のして保管されています。ら拾われ、琉球国王に献上され、現在も国宝と国は滅亡します。なお、千代金丸は志慶真川かにじ)、珉(みん)、攀安知と3代続いた北山王小刀で切腹して果てました。ここに怕尼芝(は丸を志慶真川(しげまがわ)に投げ捨て、腰のうとします。しかし切ることができず、千代金で守護神の霊石を切りつけ、返す刀で切腹しよと先祖伝来の宝刀「千代金丸(ちよがねまる)」ち)は、本部平原を切り殺し、もはやこれまです。怒り狂った最後の北山王、攀安知(はんあんの裏切りにあい、城内から火の手が上がりまます。しかし腹心、本部平原(もとぶていはら)の尚巴志(しょうはし)の連合軍と合戦を交え1416年、北山王は本島統一を目論む中山宝刀・千代金丸北山王の最後とています。形に沿って曲がりくね、雄々しく立ちはだかっく、割れにくい古期石灰岩でできた城壁で、地られるような白い石(琉球石灰岩)ではなく、硬2が調わ査かにっよてりい、ます14世。沖紀縄中の頃他かのらグ構ス築クさでれよたくこみと?岩山の頂上に築かれた今帰仁グスク。断崖や深い森に守られた天然の要害で難攻不落と謳われた?石灰岩が野面積みで積まれた大隅の城壁。高いところで10m。敵を攻撃しやすいようにカーブが設けられ築城技術の高さがうかがい知れる?今帰仁グスクで最も神聖な場所とされたテンチジアマチジ。北山王、攀安知が切り付けたという霊石がここにあったという?今帰仁村歴史文化センターで展示されている千代金丸(複製)。黄金に輝き国王の刀にふさわしい美しさだがあるのことを詠んだ歌碑庭には志慶真乙樽?今帰仁城跡の大?今帰仁村商工会が公募して選考された今帰仁御神の肖像画(今帰仁村商工会提供)※肝心とは沖縄の言葉で、思いやりなどを意味します。でも親しまれています。くる)が姿以上に美しかったと言われ、現在りました。乙樽は美しいうえに肝心(ちむぐがら、若按司(王子)をわが子以上に可愛がぎが産まれます。乙樽は側室の身でありなかったのですが、念願かなって王妃に跡継けます。当時、高齢の王には、後継ぎがいな山王に側室として召し抱えられ寵愛を受仁御神(なきじんうかみ)と呼ばれ、時の北見目麗しい乙女の噂は国中に広がり今帰る)という美女がいました。黒髪が美しく、志慶真ムラという集落に乙樽(うとぅだいて紹介します。今帰仁グスクの南にある最後に今帰仁村に伝わる美女の伝説につ志絶慶世真の乙美樽女の、伝説07